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あかずの踏切り.28 [皆の恋話]

 五時限目の試験が終わってからボクと萩原は、連れだって建物の外へ出る。いつのまにやら小雨がぱらつきだしていた。キャンパスには、もう誰もいない。ボクたちは、それでもしばらく待ちつづける。しかしQ派の奴らは姿をあらわす気配がなかった。萩原が勇んで、こう言いはなつ。
「やっこさんたち、敵前逃亡しやがったぜ」
「どうやら前期の勝負は黒白のはっきりつかないまま、痛みわけってことらしいな」
そしてこの日からボクは二か月におよぶ夏やすみに入った。おそらく、これはボクにとって長い休戦となるだろう。休戦がそのまま停戦につながるのかどうか、まだ今はわからない。


    真実

いっぴきの黒いゴキブリが
ターン・テーブルにのかって
くるくるくるくるまわっている
馬鹿なやつだ
目をまわせ

俺はゴキブリだ


 ボクの部屋へくる時は気をつけないといけない。さもないと蜘蛛の巣に頭をつっこむこととなる。鍵のありかは、いつか教えたね。いつでも勝手に入ってくれていい。四畳半でも広く感じるのは物が少ないからか。ただ、夏は暑いよ。窓を開けても隣の家の塀が見えるだけにすぎない。風とおしなんて望むこと自体が、まちがいだ。せめて二階の部屋を選ぶべきだった。扇風機も、あるにはあるのだが。まわしてみたところで生ぬるい風が吹いてくるばかり。モーターの熱で、かえってむし暑くすら感じられる。

 昼間でもうす暗い部屋だ。これじゃまるで洞穴とかわりない。竪穴式住居に住んでいるような気になったこともある。そんななかで部屋を斜めに横ぎる物干綱の明るい緑がけなげだ。なぜ部屋のなかに物干綱があるのかって言うのかい。ここでは洗濯物を窓の外に干そうと部屋のなかに干そうと、乾き具合がかわらないのだよ。たとえ窓の外に干したところで、ちっとも陽があたりやしないからね。そこで部屋の飾りの意味をも兼ねて物干綱を部屋の端から端へ渡してあるってわけさ。せめてそういった小物で部屋を明るくしなければなるまい。緑色が好きだ。なにか日用品を買う時は、なるべく緑色のものを選ぶようにしている。いつかは部屋のなかを緑色で染めてみたい。だけど勝手に壁紙なんか貼るわけにはいかないんだろうな、やっぱり。

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あかずの踏切り.27 [皆の恋話]

キャンパスでのつるしあげは、何も珍しいことでない。キャッチ・ボールやテニスをしている学生は、ボクたちのことを少しも意にとめていないようだった。ボクと口ひげのまわりに半径一メートルほどの間をあけてQ派の奴らがボクたちを取り囲んでいる。数えてみたら口ひげをいれて、ちょうど十人だった。そのまわりをさらに数メートルほどへだてて二十人くらいの学生の輪ができている。彼らはことのなりゆきを見まもっている、通りすがりの学生なのだろう。彼らのなかにボクは萩原の姿を認めた。その輪よりもさらに外側にいる学生たちは、もうボクたちの方を見むきもしない。また口ひげがボクにマイクをさしむける。ボクは口をきった。

「ボクが反動思想の持ち主じゃないということは、明らかにしておいたはずだ。誰が何てったってボクは反動……」

「なに言ってんだ、お前は。口では何と言おうと、お前のやっていることは反動勢力を有利に導くこと以外の何ものでもないじゃないか」
ボクたちをとりまいていたQ派の奴らのうちのひとりが、ものすごい剣幕でボクに喰ってかかる。他の奴らも口をそろえてボクをやじりはじめた。口ひげがマイクに向かってしゃべりだす。

「このように彼はきわめて反人民的な言いのがれを試みております。しかし、諸君。我々は決してだまされてはなりません。かつて自ら反動を名のる反動があったでしょうか。あのヒトラーのナチ党ですら、表向きは社会主義を標榜していたのであります。このことからもわかるように……」

ふと気がつくと萩原の姿が見あたらない。どこへ行ったのだろうか。マイクがボクの方に向けられた。また言いおわらないうちに遮られたのではたまらないと思い、ボクはマイクを握ろうとする。しかし差しだしたボクの手は、すぐに払いのけられてしまった。ボクもついに怒りを抑えきれなくなる。
「君たちは決してマイクをボクに渡さず、いつもボクがしゃべりおわらないうちに遮ってしまうじゃないか。しかも大勢で、たったひとりのボクをやじりたてる。このような一方的なつるしあげを、ボクは理性的な話しあいとして認めることができない」

この時ボクをやじっていた奴らが、さらにその声を高めた。大声で口々に怒鳴りつけてくるため、そのいちいちの言葉を聞きとることはできない。口ひげがまたマイクを握りなおす。
「諸君。若杉はまことに身勝手な言いがかりをつけて、この場を逃れようとしています。しかし彼の……」

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あかずの踏切り.26 [皆の恋話]

 台風一過の七月九日をへて十日には再び天気が崩れる。雨こそ降ってはいなかったもののどんより曇った、いつ降りだしてもおかしくない空もようだ。この日は三時限目にドイツ語の、そして五時限目に英語の試験が行なわれることとなっていた。ボクは大学へ行き、まずドイツ語の試験に出る。いつぞや教室へやってきた自治会の奴らを追いかえした、あのドイツ語だ。試験を受けている時、教室の廊下で何やら少しざわついていたのが気になった。ここしばらく休んでいたボクにとっても問題は、そんなに難しくない。早めに答案を書きおえ、ボクは教室の外へ出る。そこには見知らぬ学生が十人ほど集まっていた。そのなかのひとりがボクに近づいてきて声をかける。

「若杉真也だな」
「ああ」
思ったとおりQ派の奴らだ。それにしてもどうやらボクは早くも奴らに、すっかり面が割れているらしい。

「これからキャンパスで公開討論を行なう。ついてきてくれ」
「ああ、いいだろう」
そうボクが答えおわるかおわらないかのうちに彼はボクの左腕をとった。もうひとり別の奴が奴が近づいてきて、そいつは右腕をつかむ。
「放せ。そんなことしなくても逃げやしないさ」

しかし彼らは聞こうとしなかった。さらに他の奴らも近よってきて、ボクらのまわりをとりかこむ。ボクは諦めて引っぱられるまま、彼らと一緒に歩いた。胸が高鳴っているのは自分でも、よくわかる。だがその傍らでボクが一安心していたのも、また確かだ。「キャンパスで公開討論を行なう」と彼らは言った。ボクたちが俗に、つるしあげと呼んでいるやつのことだろう。学部長の教授や、あるいは大学内に入りこんできた民青の学生を彼らがつるしあげているのは、これまでにも何度か見たことがある。つるしあげられる側にとってはたまったものじゃないが、殴ったり蹴ったりの手だしをくわえられることはない。もし手だしをするつもりがあれば決してキャンパスには連れていかないはずだ。はじめから学館すなわち学生会館へ引きづりこみ、誰も見ていないところでリンチを加えるに違いなかった。

 ボクたちはかたまったまま建物の外へ出る。雨はまだ降りだしていない。キャンパスには大勢の学生がたむろしていた。そのうちの何人かはキャッチ・ボールをしている。また何人かはテニスをやっていた。スケート・ボードを楽しんでいる者もいる。ボクたちは彼らの横を通ってキャンパスのほぼ真ん中に陣取った。正門を入ってきた時、真正面に見えるあたりだ。すぐさま小型の拡声器が用意される。奴らのうちのひとりで口ひげをたくわえた男がマイクを握り、こう切りだした。

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あかずの踏切り.25 [皆の恋話]

「試験は英語とドイツ語だけみたいだよ。あとの科目は後期にしか試験をやらないか、それとも夏やすみの終わりにレポートを出すかのどっちかだ。しかも金曜日のほうの英語は前期試験をやらないらしい」
「ほんとかよ。珍しいな、英語が試験やんないなんて」

「うん、あまり聞かないね。ま、ともかく君にとって前期試験は三つだけだってわけさ。メモの用意はいいかい。いくよ。まず七月八日にドイツ語がある。それから七月十日に英語とドイツ語の両方。三つともいつもの授業と同じ時刻に、いつもどおりの教室でやるそうだ。十日のほうは英語ドイツ語とも持ちこみ一切禁止だと。八日のほうのドイツ語は辞書だけ持ちこんでいいって言ってた」

「ふうん。で、それぞれの範囲はわかっているのかい」
「それがね。三つとも試験の前の週にやったところまでだって言うんだ。だからさ、はっきりしたらこっちから電話するよ。おっといけない、電話ないんだったっけ。呼びだしもしてもらえないのかい。それじゃあしかたないな、また来週の末にでも電話くれないか。そうしたら、どこまで進んだか教えてあげられるだろうからさ。ところで君、どうするよ。試験には出るつもりなのかい」

「ああ。出ないわけにはいかないだろうさ。で、どうなんだい、Q派の奴らの様子は」
「ここんとこはクラス授業にも、来ないことのほうが多いね。どうやら奴らも、もう君は大学へ出てこないものと思っているんじゃないか。ただ試験となれば、また話が別だろう。もし試験を受けるつもりなら、彼らとぶつかることは覚悟しておいたほうがいいと思うよ」
「わかってる。何にせよ不意打ちをくらうってのは、あまりありがたいことじゃないからな」

 七月八日は台風が近づいているとかで激しい雨の降る、いやな天気だった。こういう日は、できることなら外へ出たくないのだが。しかし電車がとまりでもすればともかく、さもなければ台風くらいで試験がなくなるわけはない。ボクはジーパンをぐっしょり濡らしつつ、はじめて駒場から大学へ行く。少し早めに教室へ入ると、そこにはしばらく会わずにいた同じクラスの奴らがそろっていた。普段ほとんど授業へ出てこないような奴でも試験にだけは顔を見せたりするものだ。

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